2014年2月から、24日間にわたるアメリカ横断旅行の記録です。
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「いのちとは何か
それは、夜を照らす蛍のきらめき
凍てつく冬の空気に野牛の吐く吐息
草の上に落ち着かない姿を映しながら
日没とともに消えていく、ちっぽけな影
ブラックフット族の首長、クロウフット(1821-1890)」
「われらはわれらを支えてくれる、母なる大地に感謝します。
水を運ぶ河と小川に感謝します。
病気を治す力をもったさまざまな薬を恵んでくれる、植物たちに感謝します。
われらの生命を育むトウモロコシと、その仲間のそら豆とカボチャに感謝します。
果物を実らせてくれる生け垣と木々に感謝します。
太陽が沈んだのちも、闇を照らす光をあたえてくれる、月と星々に感謝します。
われらの祖父である『ヘノ』に感謝します。
彼は、われら孫たちを、呪術師と蛇とサソリから守り、雨を降らせてくれます。
われらはまた、慈悲深い眼差しで大地を見つめてきた太陽に、感謝します。
最期にわれらは、『グレート・スピリット』に感謝します。
あらゆる良きものを身にまとい、われら子供らの幸福のため、万物を導いてくださる
『グレート・スピリット』に、われらは感謝をささげます。
イロクォイ族の祈りの言葉」
「太陽があと何回か頭上を過ぎれば、わしらの種族はもうこの地上から姿を消しているだろう。
わしらの灰と骨は、散らばって、平原に溶け込んでしまうだろう。
夢見の中にあるかのように、わしにはその光景が見えるのだ。
わしらの評議の場の火の輝きも消え失せ、冷たく白くなった灰の跡だけが、見えるのだ。
わしらのテントの上に、渦を巻いて登っていく煙も、もう見られない。
食事の支度をする女たちの歌う歌も、もう聞こえない。
羚羊は、逃げてしまった。
野牛のいた土地は、もぬけのからだ。
聞こえてくるのは、ただコヨーテのうなり声だけ。
白人の『医学』は、わしらよりも、ずっと力が強い。
彼らの『鉄の馬』(汽車のこと)は、野牛の足跡の上を、突っ走っていく。
白人たちは『ささやく霊』(電話のこと)の道具を使って、わしらに話しかけてくる。
わしらは、羽根をむしられた鳥のようだ。
からだの中で、わしの心臓がどんどん冷たくなっていくのがわかる。
目がかすんできた。
わしは年をとったのだ……
クロウ族の首長、プレンティ・クゥ(1909年の最期の言葉)」
以上、ミッシェル・ピクマル編(中沢新一訳)
『インディアンの言葉』紀伊国屋書店 1996年 より
日本に帰ってきてからすぐ、この本を図書館で借りてきて、
夜な夜な読んで、アメリカの余韻に浸っていたのを覚えています。
東京の騒々しさの中で、また様々な現実にうちのめされ、ぶつかって、疲れて、休んで、
楽しんでの繰り返しの忙しい日々を送っている今日この頃ですが、
久々にこの本を読んで心が静かになりました。
この本の中にも登場する「グレート・スピリット」という言葉は、「大いなる神秘」「宇宙の真理」
とも言われています。
また、「大いなる神秘」のもとに、人間や動物、木や草や空や水なども、すべては平等であり、
尊重されるべき存在である、とのことです。
日本でいう、「神道」と少し似ているかもしれません。
まわりは見渡す限りの大自然、その中で、人や動物やあらゆる自然一つ一つに、
喜びと感謝の心を持つ生き方を最期まで貫いたインディアンの人々。
どんなに素晴らしい芸術品でも、それらは全部自然の模倣にすぎない的な言葉を
聞いたことがあるけど、
それと同じでどんなに時代が変わり、便利な発明品などが増えようと、
人間は常に「生かされている」のであって、様々なものに「支えられている」。
それを自分自身、自覚しているのとしていないのとでは、
見える世界が違ってくるのかなとなんとなく感じました。
インディアンの人々の、その尊い考え方にまた一つ学びました。
ありがとう。
ナバホ族の聖地、モニュメントバレー
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